昭和43年8月5日 朝の御理解
◎起こって来る事一切がおかげ
X御理解第五十三節 「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより、知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったという事が分かるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」
真実の信者とおっしゃるのですから、せっかく信心させて頂くのですから、やはり本当なものを求めなければいけません。本当の信者を目指さねばいけない。信心をさせて頂いておって、それは困った事だ、いけない事だとゆう事はないとゆう事。あの事もこの事も全てが神愛の中に起こってくる事、全てがおかげの元になる事です。そこで私共は、ここんところをそうだと分からして頂く為に人間関係を正してゆかねばならないと思うんです。それはどこ迄も、人間は神の氏子としての自覚、人間はどこ迄も神の氏子としての見方、同時にこのひとつ前の五十二節にありますように「信心する者は驚いてはならぬ。これからあと、どのような大きな事ができてきても、少しも驚くことはならぬぞ。」これは物事どのような事柄が起きてきても「あわてる事も驚く事もならぬぞ」とおっしゃる、そんなに驚く必要はないとゆう事。いわゆる「おかげ」だとゆう事だと思うのです。
おかげだから、おかげでなかったら驚かん訳にはいかん、本当に困った事だったら困ったといわなけりゃいかんけれども、信心する者の上にどのような事がこれから先起きても、それもやはり神愛の表れである、神様の私共一人一人の氏子の上におかげを下さろうとする働きの表れなのだ。青筋立てて腹かく事もいらん、又、べそかいて悲しむ事もいらん「神様の御都合に違いはない」とそれを驚かんで頂くだけの信心の度胸とでも申しましょうか、事柄をそうゆう風に見る。又人間関係をしていく為にまず神の氏子としてのそうゆうようなおかげである。
昨日は、もう終日お届け帳にお届けさせて頂いておる程に、御参拝が多かったんです。もう本当にお届け帳にお届けさせて頂くだけでへとへと、もう本当に悲喜こもごもの本当に人間心を使うたら驚かなおられんような、又、人間心使うたら、腹立てにゃおられんような、信心しよってどうした事かとゆうようなお届けが次々と有りました中に、こんなお届けがあったんです。
まあだ娘さんが十九か二十位です、けれども非常に異性関係の問題が絶えない、そうゆうような事でお参りになったんですけれども、もう本当に転落寸前のところをおかげ頂いて、まあ立ち直りが出来た。おかげで勤めにも出れるようになった。ところが又勤めの道中、汽車か電車の中で知り合った人と交際が続いておる。もうご両親も本当に子供の為に安心が出来ない訳でございます。昨日もそのお母さんと娘さんと丁度一時の御祈念に参って参りましたのでお母さんが云われるのですよ。ある教会で長く信心した方なんですが、ですから信心の事は大体分かってあるのです。この子の為に家の中がいろいろさわがしゅうなったり、真っ暗うなったりする訳です。この娘が踏み迷う事のないようおかげいただきますようにと云うて、お届けがございましたので、私が親子を前にして申しました。
よしこさんと云ったかね、その娘さんは「良子さん、お母さんはああ云われるけれども、踏み迷うたってかまわんよ」と私が申しました。踏み迷わんように踏み迷わんようにと云うたって、どれが本当の事か分からん「踏み迷うたおかげでこのようなおかげを頂いた」とゆう事もあるんだから、お願いしておかげの中に踏み迷うていくのなら、それはおかげになるのだ。問題はおかげになり、幸せになっていくのだ。
同時にこうゆう詩があると云うて、お話しました。「吉野山ふみ迷うても花の中」大きく云うなら金光大神のお取次の働きの中にあるのだ。お母さん、あなたは娘が勤めから帰って来ると、それこそ疑惑のまなざしで見よるだろう。ちょっと遅かったら「どうしよったの」と、ですから、もう自然と親子の間でも、目をふせねばならないようになる。疑われとると思うとるから。
そうゆう事ではいけない。お母さんあなたも考えなきゃいけない、ゆうなら「金光大神の働きの中にある事、ゆうなら大坪総一郎の祈りの圏内に起こってくる事。これからは娘が遅かろうが早かろうが、例え疑わしい事があってもそれは人間心で、これは目にあまるとゆう事があっても神様にお願いもしなければならない。おすがりもしなければならない。けれども、それがおかげになっていく為だったらいいじゃないですか。今迄はそれが出来てなかった、しかしこれからは「私の祈りの圏内」に起きてくる事だから、決して疑わしい目つきを以って娘を見ちゃならん。娘もああしちゃならんこうしちゃならんとゆうのではなくて、神様にお願いして、又異性との交際だってかまわん。そのかわり、お願いしてさしてもらわにゃならん。例えそれは踏み迷うたようであっても「神様のふところの中なのだ、祈りの圈内なのだ」どんなに踏み迷うてもやはり花の中である。
こんな楽しい事はない。合楽の信心を皆がバラエティーに富んだと云います。確かに私もそう感じます。もう日々の事をですねぇ、取ってつけたように嘘のように、まるっきり演出したように、それがおかげへ転換してゆくと思うね。
昨日はこんなお届けもありました。お届けの中に泥棒氏とゆうのが有りました。妙な名前があるもんだと思いましたが、やはりその人は泥棒氏なのです。そこはもう一家をあげて泥棒をするんだそうです。一家が協力してから、親も子も。子供が取ってくると親が誉めるとゆう家庭が近所にあるとゆう訳なんです。
結局そしてここへお参りしてくる方が親子でお参りしてきた訳なんです。こちらへ来る時に一万なにがしかのお金をハンドバックに入れた。そしてこんなにいらんからと云うて、差し引いてそれを引き出しに入れていった。それだけが取られた。もうどの引き出しも、この引き出しもめちゃめちゃにして金だけを引き出し取る。警察が調べに来て、これは足あとからして、子供だとゆう事が分かった。そして風呂場が大体無用心に出来ておるけれども、そこから入る事だけを知っているのは誰々より他にない、それがそれらしいんですよね。
それでも取られた方は、お取り払いとして、有難く頂いていきますけれど取った方が立ち行かん。どうぞその泥棒氏が立ち行くようにとゆう訳なんです。いわゆる「神の氏子としての見方が出来なければ出来ませんですねえ」それとてもそうです、とりわけお参りさせて頂いておるその留守中の出来事こうゆう時にどうでしょう、お参りしよったのに取られて、神様もいい加減なもんじゃあると云うたらもう信心はないんです。いわゆる目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が、多い事が体験の上から分かってくると、泥棒に取られてもです、その事をおかげとして頂く事が出来る。又人間を神の氏子としての取扱い、泥棒氏として、お届けの出来る内容が頂ける。
これは、この近所の合楽会の方ですけれども、熱心に毎日参ってみえます。この方は、後添いにみえられた方なんです。もうおばあちゃんです。先日は七夕さんでしたから、それで孫の七夕さんのひきものを、久留米に買いに行った、そこでハンドバックを見た、ところがお金が二、三千円しか入っていなかったから、お金をと云うたら一万円を持って久留米へ買物へ行った。そして色々買い集めて、荷造りまでしてしもうてから、お金を払おうと、ハンドバックを見られたところが一万円札が入っていない、どこでつまみ出したか分からん。こまかいお金を何回も出したが、その時は確かにハンドバックの中に入っておったと、うちの人も云われる、けれども入ってない。おばあちゃんにしてみれば、一万円とゆうお金は大金である。しかも、やはりそうゆう義理の仲である、どうしようと思うて一生懸命迷われると同時に一生懸命、金光様、金光様と念じられた。
そうして、ここで誰からいくら、かれからいくらと借りればすぐ一万円位は出来るとゆう訳なんです。そして、それで顔だけ作っておこうかと思うたけれどもそうゆうような事がもし後から、ばれでもしたら後で家庭がそこから溝が出来る元になると思うた。これは一番私が本当に悪かったんだから、息子に詫びようと思うた、そして、どう詫びようかと思うてです、色々考えさせて頂きよったら、帰ったらどうゆう風にこの事を息子に云おうか、そして思うた。私が久留米に買物に行ってから事故にでも会うたと思うてくれんのと、私が怪我したと思うてこらえてくれんの、私の不調法で一万円無くしたとゆう事を云おうと思うて、腹決めて帰った。
そしたらもう涙がこぼれて仕様んなかった。それは悲しいとか苦しいとかじゃないけれども・・・・。帰ってから息子にその事を云おうと思うてからもういっぺんハンドバッグを開いたところが、先生もうなんべん見てもなんべん見てもなかったのに、ハンドバッグの中に一万円札がちゃんとはいっとるじゃなかですか、もう私はそこで、又泣いてから息子に云いました。実は私は今日はこげん云うてから、ことわりに云おうと思うて帰ってきた。そして今見たら入っとる。
私はその話を聞いてから、それこそ手を取らんばっかりに。中村さん素晴らしいと云うてその方に申しました。もうあなたは一万円落として、一万円のお取払い頂いたと同じ事ですよと私は申しました。その事によって今後のその家庭がどんな素晴らしい事になっていくか、大体そこのお母さんとゆう人が実に素晴らしいとゆう家庭なのです。義理の仲じゃけれども、義理の仲であればある程にそうゆう秘密があったりそうゆう事があったりすると、そこから溝が出来る。そこで私が悪いなら悪い事として、「私が怪我したとしてから、一万円なくしたと思うてあきらめてくれんの」と云うてお詫びしようと思う。それがお金は出て来た。「おばあちゃんそんくらいのこつ、あんたが心配するこつがいろうのう」とまぁ息子が云うてくれたけれども、その事によってです、どの位そこのおばあちゃんが潔白な人であるかとゆう事を皆んなが分かってくれるにちがいないと思うのです。
ひとつの事柄が段々、その時は真実ではない嘘の事をしておって、まぁごまかしが出来ましてもです。後々でそれが難儀の元になったり、家庭がこわれていく元になったりするのです。私はそうゆうような行き方こそが望ましいと思うんです。人間ですから、いつどんな事があるやら分からない。その事がです、おかげとしてその事のあったおかげでです、おかげを受けたとゆうお届けがありました。
これも福岡からお参りしてみえる方なんですが、福岡に大きな墓所をですねぇみんな掘り上げてしまって学校かなんか建てるんです。そこの改造委員長としておられる方が夫婦で参ってみえました。それがたくさんな墓があって中には無縁仏がたくさんある。その無縁仏の中にお道の金光教に改式して無縁仏になっている霊様がある訳なんです。それであちらこちらのお寺さんにも頼んだけれど、金光様のそれがあるから金光様にもお願いしようと思うているところへ、本当に霊様が助かって頂かにゃいかん。その為には私のお参りしている教会があるからと云って参ってみえた。
それで私は承知致しました。そのいわゆる無縁仏にだけは、私が引き受けた、お願い致しますよと云うて、まぁそんな風に云うて頂いたのは、ここが初めてだったと云うて、それがそのたくさんのお寺さんやら、教会はここだけだったそうですけれども、三万円ずつ永供養をお供えした。その職務上いちいち受け取り証をもらわなければいかん。真にすみません、こうしてお供えを持ってきましたけれども、領収証を書いて頂かなければいかんとゆう訳なんです。私はお供えの領収証は初めて、そんなら事務所へ行ってあんたのよかごと書いてらっしゃい私が判だけ押しますからと云うて、事務所で作製してみえたから、判を押してあげたんですけれども。
私は金光様の流儀はこうだから、こうゆう流儀だからこうだからとゆう、そんな事はないと思うんです。もうどこまでも大きい大きい、いわゆる天地を相手にした神様ですから、そげなこつは今の私のこうゆう事が教団の人達に聞こえたら、もうもっての他だと云うに違いないです。お供えに領収証書いたなんて・・・。けれども、私はいっこうに差しつかえない。霊さんがどうこうとゆう事はない。それで金光教的ではないとゆう事はない。として私はお供えの領収証を書かして頂いた訳なんですけれども。まぁ、そうゆう昨日は、バラエティーに富んだお届けの中からです。今日皆さんに申しました「信心すれば眼に見えぬおかげの方が多いぞ、知ったおかげより知らぬおかげの方が多い。後で考えて彼もおかげである。此もおかげであると分かるようになる。そうなれば一人前の信者じゃ、真実の信者じゃ」
真実の信者をお互いに目指さなければならない。それには、小さな信心ではいけない。ある人が云うた。もう別にお金をたくさん望みもしません。今より立派な家に住もうとも思いません。家庭が円満でそして、その日その日が立行くおかげさえ頂くきゃあ、余分な欲は持ちません。そうゆうおかげが頂きたい。皆さんどうでしょう。それでいいですか、そうすると、子供でも息子でも親でも兄弟でも。それこそ自分の型にはめたように思うようになってくれなければ、そうゆうおかげになってまいりません。家庭の中を自分の思うようにしようと思う。それはお互いが努力し合って、思うたようなひとつの形とゆうものを作ってその形から、はみ出らんようにはみ出らんようにしたらいいかもしれません。けれども、私が今日申しましたですねぇ、どうゆう、これは金光教的ではないとゆうような事があっても、又は泥棒がおっても中にどうゆう踏み迷っていくような子供があっても、親の目から見て、それを正さしむるそれをなくさせよう、そうゆう事は信心しよってとゆう事はない。
私共は自分の思うようなおかげではなくてです、本当に神様が私共に下さろうとする思い以上のおかげ、「思うようならぬが浮世」とこう云うが確かに思うようにならぬのが浮世だけれども、そこんところを分からして頂いて日々お取次を頂かしてもろうて、「あれもおかげ此もおかげ」と段々分かるようになる。信心が段々出来てくると様々な事が起こって参りましても、それはもう実に楽しいバラエティーに富んだ日々がですねぇ、楽しく送る事が出来る。そこにはわくが取りはずされたところのいわば思うようなおかげでなくても、思い以上のおかげ、夢にも思わないようなおかげ。
ひとつの自分の家庭というもの、息子をこうせんならん、娘をこうせんならん、そこにお道の信心頂いていく為の信心生活とゆうものがある。御取次を頂いての信心生活の中には、どのような事があってもいい、だからこそ信心する者はどのような事が起こってきても、驚かんですむのでございます。御取次を頂いての事悲しまんで済むのでございます。普通の場合の目に角立ててとゆう事はいらん。それこそ踏み迷うても花の中である事をです。信心させて頂く事が一番のお道での助かり方だと思うのです。かと云うて目にあまるような事、その前の御理解にもあるように「氏子身上の事なんなりとも、実意をもって願え」と、云われるもんですから、娘がこうです、息子がこうです、主人がこうです、家内がこうですと云うて御取次をお願いしたならばです。それを放任したのでいしけません。
昨日も、もうひとつ久留米の石橋さんと云うて熱心に参って来る、光橋先生のところの御信者があります。その方の妹さんが笹山に住んでいる。たまたま行き合わせたところが、妹さんがそれこそうかぬ顔をしておられる。姉さん今日はいっちょトランプ占いかなんか、占いにでも行ってみようと思うとる。どうしたのと云うと、もうこの二、三日胸にはばからん事があって、もう憂鬱と云うか、いらいらと云うか。もうどうにもこうにも自分の胸の中が自分で治められない。何か訳があるとじゃろうから、ひとつ占いに聞きに行こうかとゆう事であった。
そこで、そうゆう占いなんて行かんでん、私がお参りしよる合楽にお参りしなさい、私もどうせ今日一時の御祈念にお参りしようと思うから、一緒に参ろうと云うて参って来た。本当に憂鬱そうな顔で、ここでお届けがございました。それで私、その方に申しましたんですけれども、もう本当人間とゆう者は、自分でも訳の分からんように、どこからこの例えば、ある意味では、喜びが湧いてくるか分からん時もある。かと思うと、どこから湧いてくるか分からん不安な状態の時もある。いらいらが起こってくる事もある。特に女の方達なんかは周期的に起こってくるような事があるようですね。
ですけれども、どうゆう風に自分の心の中にいらいらがあっても、それは石橋さん、あなたが生きておられるしるしなんですよと、私が申しました。あなたが、もう冷とうなっておられるとするなら、もういらいらもなからなければ、心配もない。そのかわり喜びもない。けれどもあなたが生きておられるしるし。もうその一言ですね。もう目に涙をためてから、ほんにそうでしたねぇとゆう表情をなさいました。おかげを受けられたなぁと私は思うた。
金光教の御信心は「天地の大恩を知る」事なんです。「天地の中に生かされて生きておる」のです。ですからね、もう朝眼がさめたとゆう事は、もう実におかげなんです。痛か事も、痒い事も、歯がゆい思いをする事も、腹の立つ事も、これはもう本当に生きておるしるしなのですから、天地に大してお礼を云いなさい。もうあなたのその心の中は、もう感謝を捧げた。その瞬間から胸がすっきりするのでしょうと私は申しました。
申しましたら、それこそもう云う前に、はぁそうでしたとゆうようなものが感じとられたんです。そして本当にそうでした、もう本当に胸の中の三日間の何かがいっぺんにすっきりしたとゆう風でした。そして次々にいろいろと悩みを云われるのです。今日はこの事だけはおかげを受けたと云うのです。私はこの姉がしゃにむに今の所へ縁づかせました。この姉さんを見ると、もう恨もうごとある。と云うのは。十八になる娘で。先妻の子がある。本当に可愛がらないかんと思う。ところが先生、どんなにつとめてもつとめても自分の子のような訳にはいきません。そこを思うと自分の心が自分でも恨めしゅうてこたえん。もう本当に悲しゅうなりますと云うて泣かれた。
だから、私は申しました。あなたは助かられるばいと、私は申しました。何故って大抵の者がです後よりに、行った人が、もう自分は自分の子と思うて自分の子と同様にこうしよるけれども、こうしてまま子の方が云う事ききませんと必ず云うて、けれども、あなたはね、自分の事、いわゆるまま子に対する開きをね、悲しんでおられる位な、あなたなんですから、きっと助かられるよ。
あなたが今姉さんに、この姉さんを見ると恨めしい、この姉さんが私をあんな所に無理やり縁につけたから、こうゆう結婚をせんならんと云いよるけれども、姉さんのおかげでお導きを頂いた。姉さんのおかげで信心が分かるようになった。姉さんのおかげで、ようもああゆう所へやって頂いた。とゆう事になるじゃろう。きっとなるよと私は申しました。本当にここでおかげを頂いて信心を頂いてゆけば、そうゆう風になるかもしれませんねと、云われました。
信心させて頂いておりますところからね、ですからね起きてくる一切の事がおかげである」と、まず第一に天地の大恩を分からしてもらうところから、全ての事がおかげであると、まず分からしてもらわにゃ、痛い痒もい。どうにも出来ない心の思いも、これは生きておるしるしじゃったと思うたら、三日間のもやもやが無くなってしまう位にです、私は斬新天地に対するところの御恩徳に対するところの有り難いとゆうものを身につけていかなければいけない。
ですから、これから先どのような事が起こってきても驚かんで済むのであり、それこそ目に見えておるところはおかげでないようにそれこそ娘が又、転落してゆくのじゃなかろうかとゆう風に見えるけれども、その娘を疑惑的な見方をせずに、御取次を頂いて起こっておる事としてです、それを見てゆくようなおかげの中に「吉野山踏み迷うても花の中である」たとえば踏み迷うてもです、その踏み迷うた事がおかげにつながっていく、幸せにつながっていきさえすればいいじやないか。もう信心の無かった時とは違うのだ。そうゆう思い込みが段々出来てゆくおかげを頂いていくところからです、それが体験が積み上げられていくところからです、あれも、これもおかげである。後で分かるのじゃない、もう、その場で段々分かるようになってくる。
後から考えてみるとあれもおかげじゃったと、あれが転落した、親不孝者と思いよったけれども、それが一番の親孝行になる。それが、その人の幸せの元になる。とゆう例は信心しとればたくさんある。いわゆる、おかげの中であっておる事なんだ。それは困ったねとゆう事はない。信心させて頂いて、ここのところをひとつ身につけてゆきたい。
そして、それは今そこでこれもおかげとは分からなくてもです、今この問題は、おかげと分からなくてもです。分からんなら、そこをお詫びさせて頂くとか、お願いをさせて頂くとかしながらです、後で考えてみてあれもやっぱりおかげじゃったとゆう体験が積み重ねられていくところに、これから先どのような事が起こってきても、驚かんでよいんだなあとゆう事が分かってくる。どのような事が起こってきても、これもおかげとすぐそのままおかげと頂く事が出来る。そこにです極楽がある、あれもおかげ此もおかげ一切がおかげと感じられる中にある私。
そうゆう私は信心がです、彼もおかげであった、此もおかげであったと分かるようになると、本当の信者であるならば、その本当の信者を段々積み重ねていきながらです、もうあの事もと云うのじゃなくて、もう即その場で「これもおかげぞ」と云われる信心が出来たら、それが本当のお徳にならんはずがない。それが「お徳になる」と私は思うんです。
お互い日々をですね、どうゆう中にあってもやはり、本当にバラエティに富んだ日々でなからにゃならん。ひとつのリズムにのった、調子にのった、日々でなからにゃいけん、本当に一日の事を思うただけでも神様の演出の素晴らしいお方だなあと思わして頂けるようなね一日でありたい。それにはです、私共が目に見えない、ここにはおかげでないように見えるその事にでもです。おかげを分からして頂けるような信心を頂かなければ、それが楽しいものになってこない。
お芝居を見ながら、映画を見ながらです、大体の事が分かるでしょうが、あれが一生懸命いじめられよる。けれどもいじめられどおしだったら、お芝居にならん。いじめられておったのが段々おかげを頂いてくる、しまいには、いじめられんどころか反対の立場になってきたり、これが本当の事を本当の事として分かってくるように、芝居の筋とゆうのは大体みよれば分かるようにです。私共が今、こうゆう事が起こっておってもこれがこうゆう事になる、それはどうゆう事かと云うと必ずおかげの事にしかならんとゆう事が分かる。いや、これもおかげであるとゆう事が分かるようになる。だから、その事も又、楽しいのである。
あの人が悪人面して、あの人が仇役を買っておられると思うたらです、楽しゅうなってくるです。してみると、その仇役の人にでも、その悪人役のをしておる人にでも感謝しなければおられない。それこそ、この泥棒のおかげで自分の所は、御取り払い頂いて有り難いけれども、それでは泥棒氏が立ちゆかんから泥棒氏の立ちゆかして頂くような信心も又、そこから生まれてくるとゆう訳ですね。どうぞ。